2014年04月30日

言葉との対話

すっとこどっこい、おたんこなす、とうへんぼく、おっちょこちょい、うすらとんかち、とんちんかん・・・などなど、昭和のホームドラマの中で、相手を罵る時に普通に使われていた( 大概、「 この・・・が! 」という使われ用で )と記憶する言葉。名詞だろうが擬音なのかなんなのか、日本語なのだろうが、辞書で調べたことがない気がするが、未だに意味がよく判らない。自分では使ったことのない、多分あの頃も巷ではあまり使われていなかっただろう、あれらは一体なんなのだ?悪口にしちゃ、言われた方もなんか楽しくなっちゃいそうな愛らしい響き、誰が作ったの、実生活の中で言ったり言われたりした人ってどなたかいらっしゃいますか、テレビドラマの見過ぎでか、でももう死語かしら。

今日は、昔よく二人でそんな会話をした人のバースデイで、おめでとコールの電話を掛けてみよう。彼はいつかもう辞書で調べたかな、ついでに聞いてみよう。私はね、あんまり自分では調べたりしたくない、調べても覚えていられずすぐに忘れちゃうかもしれないけれど。調べずにクスッと時々ふと浮かべてみるのがいい感じ。言葉は時代にノッて、時代を紡ぐ、面白〜いね。最近よく話す友人の一人に、昭和初期の文学が好きな子がいて、日常会話の中に、古い当時の流行語なんかが普通に飛び出すから、なんか楽しくなっちゃうのだ。

この頃、部屋の花瓶の花達によく話しかけるのだが、彼らは私の投げかけるコトバを本能的に感じ取ってくれる気がする。罵ったりはしないけれど、人の使う言葉にも、人同士のみならず、対話の中に想いが託されて、相手との距離を図り尊敬し合ったりしながら心地良い時間を共に広げ合っているのだろう。花は今日も可憐に咲き続けている、嬉しいな、私は彼らを褒めてばかりいる。
言葉に心傷つくことが人間のこの世界には多い気がするが、その逆に、言葉に励まされることも沢山あるのだ。言葉は面白い、ついつい一人でだって頭や心に浮かべては口ずさみ唄のように流れ出す。
日々のコトバの中に、とてつもなく大切なことが見え隠れしているのを感じる。
posted by はるな at 15:35| 東京 🌁| 日記 | 更新情報をチェックする

2014年04月29日

歩く歩く♪

近頃、外出の少なくなった私の所に、掛ってくる電話の相手は、皆歩いている最中だ。
ひと昔いえ、ふた昔前だったら、まだ携帯電話を持っている人は少なくて、メールなんて時代でもなかったから、ま、固定の家電話や公衆電話から、受ける方も部屋の中で。海外で知り合った人や遠い旅先からの電話やエアメールなんてのが何時もでなさに新鮮で嬉しい気持ちにさせてくれたな。

さっきの電話、八王子の街を彷徨いながら、なかなか目的地に着けない友人から。まあ、暇つぶしも兼ねてか。それから、こちらから誰かに掛ける時も、相手はやはり路を歩いている。3日ほど前に数か月ぶりに話した相手は、実家大分県の緑の夕暮れ山道を歩きながら。ここ毎日のように電話で軽く実況を報告し合っている友も、殆ど電車やバスの待ち時間や、渋谷、武蔵境、国分寺などの路を行くところだ。

人の生きることは人生散歩だけれど、始めてのいろんな街の小路や遠い異国を散歩する醍醐味を、さんざ楽しんできた私には、路行く人たちからの息弾ませる電話の声は、こちらも歩いている気分にさせてくれ、羨ましくもあり、有難くもあり。

先日、旅先から戻り、お土産を渡してくれた人と、近頃の私にしては久しぶりに賑わう街中で生ビールで乾杯などしたが、暫く出掛けぬ内に、街ゆく人たちの様子、ファッションやコトバや笑顔や、よく知っている筈の街全体が、すっかり変容してしまった感触を受けた。改装した駅や新しく出来た店などの為もあろうが、それにしても余りある異和感・・・、私一人浦島さんになってしまったような。あ、これ、海外から数カ月ぶりに日本に戻った時の感じに似ている、子供の頃に風邪引きなどで休んで久々登校した時にも。

時は皆を、風景も連れて、みんなみんな歩いてる、新しい世界に変わってゆく。家の中の私は、置き去りにされながらも、そのことに時々気付き変則跳びで追い掛け帳尻が合う、・・・のかな。
すっかり遅れを取っているようでも、それでも歩いているのだ、部屋の中の私も、もぞもぞと、のったりと、万歩計に顔向け出来ぬほどにだが。

みんなみんな、歩いて歩いて、自覚ないままに、すっかり歩き過ぎて、気付けばどんな時の中に在るんだろう。
季節の色が移ってゆく、アナタもワタシも移ってゆく、不安も希望も乗っけながら、儚いながら、感謝もあって、楽しくもあり。
posted by はるな at 17:52| 東京 ☀| 日記 | 更新情報をチェックする

2014年04月23日

ちかごろ

ごろんと寝転がっていることが多いと、そんな時どこかから様々なコトバがひょいひょいと遊びに来る。
例えば、らいおねすこーひーきゃんでぃ・・・らいおねすってなんだろう?・・・スカンジナビア半島・・・ってどこだっけ、どんなところ?・・・謙徳公・・・ってどなた?先月一首覚えたけど、どんな人だったのかな?鴨川シーワールド・・・って行ったことあったっけ・・・ハトヤホテルには確か泊ったことなかったよね、親しみがあるけどそれは懐かしいテレビコマーシャルにだ・・・ネルドリップコーヒー・・・ってネルの布で濾すのだっけ。などと、脈略は何かしらあるのかもしれないが、ふとやってきた言葉の、取り敢えずのお相手をする。役不足ながら、イメージを浮かべたり何故そういったイメージが湧くのかなどなどなど、今の私の出来る範囲でコトバ達と遊ぶ。

向こうでお茶を沸かしてくれている人が、やかん沸騰の合図のぴぴぴ〜の音に対応しているが、私は長い一瞬の間、珍しい鳥がどこかからやって来たのかと信じたり、深夜にひとりの床の中で奇妙な音にドキリとして耳をそばだてると、それは自分が立てている鼻意気なのだったり、日々は誤解やひらめき、感動に満ちている。
それは君、あまりに物を知らなさ過ぎだ、と言いたくなる人も多いでしょうが、知ということの底のなさを想えば、知ることの妥協は人それぞれの器の許容次第などでもありましょうから、人の宇宙は測り知れる筈もなく。

詳しく沢山の知識が網羅された幾つもの辞典を開いても、私が本当に知りたいようなことは書いていないから、拙い指先で自分で自由に描き、遊び、確かめる、・・・それが私のこの世に生まれた頃からの生活の基本だった、割にこっそりとね。そんな風にして手探りに、走ったり潜ったり飛んだり迷ったり回避したり誤魔化したり逃げたり挑んだり寝込んだり回復したり、ふざけたり笑って怒って泣いて、空や満やら、幾億の出逢い別れ繰り返し忙しく散歩してきたが、知りて受け止め馴染んだこともあれば、何度も忘れちゃ刷り込んだこともある、中村敦夫さんが‘ 人生は 終わる時までの暇つぶし ’と以前著書で言っておられたが、たしかにこの世には未知なることが溢れていて、退屈を楽しんだりさえ出来る、その辺も本人次第の世界だ。

出来れば楽しいことが私には好ましい。だから面白いこと考えて、ひとりで笑っちゃったりするのだが、折角なら皆んなにも楽しんで貰えたらいいなぁという大昔からの欲がつい出ては、おもてなしのセッティングに入っちゃう。しかしこのもてなしの行為が今の私には難題となっているので、まあ一人で美味しいお弁当を誰も居ないような美しい桜満開の樹の下でしあわせな心持ちで頂いている、という感じ。風はそこいら中の木々の緑でかくれんぼし、立ち去る時には若葉は膨らんで色濃く育ち、刻々と時は移り、風や虫や花や・・・。ああ、きれいだなぁ、お日さま。

先日西の旅から帰って来た友人から、新鮮で好いお野菜をお土産にわんさか頂いて、冷蔵庫の下の辺りが膨らんでいる、ここ数日山盛りサラダ尽くし。それに、頂いた薔薇や椿の切り花が花瓶ですくすく健やかに手を振っている。かれらに私も手を振り応えると、皆はより嬉しそうに笑っている。20代の半ば過ぎ、日々を走り過ぎて寝込んでいた時期も、枕もとの花やみどりが私の不調をすっかり治してくれた、その恩人の花たちに、部屋やベランダに今歌っている木々草花を重ねる。アナタタチハあの子たちとよく似ているね、同じ子なのかな。問いかけると、小さくクスクス笑いが返ってきた。

出来ることをする、というのが存在の自然の営みなのだ。やはりみな、一生懸命で、よく似たもの同士なのだ。物も花も雀も景色もご飯も風も時も人も風景も眠りの夢も音楽も。みな愛おしく、いつしか一つの小さな鉢の土から伸びてきて色々の形のみどりの掌振り合っている自然が作った寄せ植えのように、譲り合い、大切に。

余談だが、いつか私がいつものように、ぬいぐるみやお人形におやつをあげた時、机上のポットの口に向かっても食べさせていたと、女友達が帰宅しておかあさんに伝えると、ポットにまでって言うのは流石にねぇ・・・、と驚いていたそうだが。・・・それだって、明日か来週か1000年後にはねぇ・・・、と一人思う。
posted by はるな at 12:30| 東京 ☁| 日記 | 更新情報をチェックする