2016年10月30日

水流

頭の中に水が流れてる。御馳走さま、夕食のキノコの尽くしメニューのお皿を洗う水の音と、渓流の音のディスクが二重奏。何やら矢鱈と湧き来る思いを鎮める、大分頭ん中クリアになってきた。

そういえば今朝は、ラジオのスメタナのモルダウで始まった。あの素晴らしいメロディーの結びは腑に落ちないとしても、川の水の流れの表現は心地い良い。

昼のワンシーン。3人で車の中、バキュームカーの群れる停留所発見。たしか先日どこかで垣間見て懐かしかったが、はっきりと最後に見たのは幼稚園に通う頃。私より少しお若いおふた方、知らないかと思ったら、小学生時代よく見ましたよ、僕の田舎は今でも普通に走ってますと、都会っ子カルチャーショック。ずっと水洗の恩恵受けて私など育ったからな。小学一年の半年間、旧校舎の壮大な水洗トイレは怖かったけど。

川べりで育った知人は、川を求めて都会を捨てて再び元の鞘へ、私にとっての川は都会の大通りをゆく車の音、静かに流れる夜の車の音に安堵する。音の記憶のふるさと。

車の流れよりも水の音はやっぱりイイナ、ストレス洗い流してくれる、お皿もおトイレもジャブジャブクリーン、外側シャンプーですっきりした後中身もね。目を閉じて水音に耳を澄ませる、余計なことは皆んな流れてゆく、大事なことだけが磨かれて残る。水流に感謝。
posted by はるな at 21:30| 東京 ☀| 日記 | 更新情報をチェックする

2016年10月26日

夕暮れ日記

暮れてゆく西を仰いで、ズラリ並んで黙っていつまでも寛いでいるカラスたちに誘われて、西を眺めれば、富士山のシルエットを浮かばせて、昭和の夕暮れ時が広がっていた。
生ぬるい風が、もやん・・・と漂い、複雑な色合いの絡まる茜の空のドラマの下で、童達のはしゃぐ声、その傍で長い立ち話の母親達。10月の黄昏は足早でも、談笑の相手の顔がよく見えなくなっても構いなしに道端に集っている。いつしかカラス達も塒へ帰った。

こんな、昔当たり前に何処の小道にも在った光景が、いつからだろうか失われてきている。街中の、ひと気の多い場所以外、夕暮れの路地に、犬を連れずに数人でのんびりと佇む人の影はない。東京の街の片隅のそんな風景に気付き、違和感を感じているのは、私ばかりだろうか。手元の四角い玩具に向かいながらユラユラと散歩する人の群れや、もはや文庫本を広げている人の居なくなった電車の中、満席だが図書館のように静かなカフェなどと共に。

今日のこの奇妙なリアルさをもって私の感覚に迫って来た夕暮れは、私に多くのことを伝えようとしていた。その言葉を受け取ろうと西空に問い掛けた。やがて判りかける数々。脛を舐めるように纏い付く温かな大気の郷愁は、昭和の銭湯の思い出と重なったと気付いた。何処かの家で風呂を焚く匂いが、昭和の賑やかな夕暮れに、風呂屋の湯煙や近隣に漂っていた匂いと重なったのだった。・・・など、など、など・・・。

部屋に戻り、夕刊を広げると、今しがた観ていたシルエットに覆い被さるように、大きく富士山の写真が第一面に載っていた。この、よくある符号の意味も、そっと浮かべつつ。そして私自身の変化に伴う応えであろうとを受け留めながら。そしてこの世の時を共有する、全てのものが複雑に影響し合いながら、時代は刻々と変化してゆくのだろう。

―― 時はただ前に進むばかりでなく、昨日を懐かしみながら整えられて育ってゆく。そんな気がした、昭和の思い出によく似た夕暮れだった。
posted by はるな at 18:38| 東京 ☀| 日記 | 更新情報をチェックする

2016年10月22日

花に励まされ

今日は一日、左手首にピンク色の風船の花が咲いている。眠れぬ夜に膨らんだ、不安の蕾を打ち消すようにやって来た大輪。市役所近くの‘ あったか祭り ’で、風船手品師の少年が作ってくれた。作ってと頼んだのでなく、何か作りましょうかと現れて、覚えたてを披露してくれた。期待しなかったのに、素晴らしいのが仕上がって、ブレスレットにしましょうかなんて、あら気の利いた紳士的なアイディアね、そして小さな手で左腕に着けてくれた。うれしいな。

今日の日にも、いろんな嬉しいことがあったし、詰まらぬ質問をして、心無い返事にまた闇に連れられ掛けたけど、大きな腕時計を観るように翻せば、括り付けられた花に励まされて、ありがとう大丈夫。

赤ん坊を過ぎた頃に、路で倒れては、誰が起こしてくれても納得行かず、伏せ直し、母に起こされるまで決して起き上がろうとしなかった、強情で執着の強い私が、悲しみの呪縛を手放そうとしているのは、畳みかかる多くの原因に支えられてだが、風に運ばれてやってくる小さな船の優しさを、受け入れ始めているから。

もう、観念する頃なのだろう。与えられた境遇に、感謝して、静かに思考し、そしてあれこれ望まず、ただ息を整える。他への願いが叶わぬことの悲しさよりも、まずは自分が他に対し、これまでしてきた、気の遠くなるほどの度重なる酷い対応。そこに立ち返れば、自分個人の固執した不満など、闇の混沌で多くは混じり合い、光の中で昇華され、他愛ない小さなかすり傷に変貌してゆく。

お世話になった様々を日々手放してゆくと、頭の中がスッキリしてきた。その近況を、年上の友に告げると、そうだよ、物は想いだからね、放せば想いの執着から解放される、って返ってきた来た。共に過ごした優しき物たち、ありがとう。そうして、新しい世界へと迎える気がする、それぞれの人生の中で沢山の人が、こんな風に決別の中で生き抜いてきたのだろうか。

さよならに慣れてしまうのは、寂しいことのようにも思える。けれど、そんな感傷を手放せば、ただの事象、普通のことなのだ。卒業式の感慨は長く引きずっても仕方ない。またその淡々とした気付きの中に清々しい息吹とともに感じ取るのは、本当に大事なことやものは、意識につい容易に登ってくるような執着や感傷などではなく、それを超越した意識下に存在するものだろうというクリアな応えだ。

不都合の中、期待しなかった安堵の中で、思うようにとはゆかずとも、小さな絵が描けた。思わぬ祝福を受けたその拙い作は、咲く花となって照れて微笑んだ。望んだことの全うされぬ哀しさよりも、望みもしなかったことの棚ぼたのありがたさ、そしてその有り難きことへの自らの浅き理解を包括する、暖かな大きな愛に抱かれている感覚は、虫や鳥や花や物たちとて受け取っているものだろうか。

過去と未来を繋ぐ今を見詰めることの大切さを、学びの中で広げよう。咲く花の命に心の声を語り掛ければ、花も心を開いてくれる、物も人も、虫も同じ、景色も。愛の法則だろうか。
さて、当面の小さな難題、この左手の大きな風船の花を外さずに寝巻に着替えるのはちょっと無理そうだ。今宵この花に見守られ続けたい。外着のまま、床に就くかなぁ・・・。
posted by はるな at 21:58| 東京 ☀| 日記 | 更新情報をチェックする